だるま屋少女歌劇

『だるま屋百貨店主坪川信一の偉業』藤田村雨/著

(昭和13年6月18日發行)

だるまや少女歌劇が宣傳の爲めに創始されたものでなかつたことが、却つてだるま屋を宣傳することになつたものである。と云ふ意味は以下少女歌劇のことを記して行くうちに、自づから了解されると思ふ。

さて少女歌劇が始められた一つの動機は、コドモの國をより美しく、より樂しくする爲めにあつたのであらうと思はれるが、今一つ根本的なものとして考へられることは、坪川の女子敎育に對する多角的な試みの一對照として少女歌劇部が構成されたものではないかと云ふ點である。坪川が會て獨特な女學校を設立したち意嚮を有してゐたことは前にも一寸述べておいたが、彼は女子敎育に對しては常に他と異つた理想を抱いてゐた。だるま屋を創立してからも、女店員に對する彼の態度は決して主人が雇傭者に對するやうな心持を有してゐるのではなく、寧ろ敎育——極めて廣い意味の——と云つたやうな位置に立つて、彼女たちを導き彼女たちを保護し彼女たちの將來を考へて行くと云ふ態度を堅持してゐた。

少女歌劇部を設けた時も、こゝに一團となつた少女たちに對し、歌劇部と云ふやうな外觀的に華やかな生活が豫想される雰圍氣の中に、他の女子店員に對すると同じやうな深みをもつ敎育、即ち彼の感化が滲透して行くことを期待した。だから最初から歌劇部生徒として募集された少女は、他の店員と同様、皆市内外の小學校若くは女學校の卒業生だつた。演出上のテクニカルなものに就ては勿論、特種な指導者をこれに當らせたが、脚本でも音樂でもすべて坪川自身が主になつて練習させ、敎育した。少女歌劇部の新設されたのは昭和五年四月だつたが、同じ年の十一月には第一回公演が既に開始された。だるま屋が開店されてからまだ僅かに三年目である。素人の開いた百貨店に、素人の試みに成る少女歌劇の初公演だ。世間では無謀だとも冒險だとも云つてゐたが併し人氣は大したものだつた。

何處までも坪川式だつたことは、開演前に歌劇部員全部が幕内で國歌君が代を合唱し、終演と同時に出演の少女たちが皆扮裝せる舞臺姿のまゝで店歌を齊唱することだつた。口の惡い觀客はまるで學校へ來て兒童の學藝會でも見せて貰ふやうだ、と云つた。實際最初に君が代を聽かされては襟を正さずに居られない。又我々日本人の習慣として君が代が唱へられる時は大抵これに唱和するものだ。事實多くの觀客は觀覽席にあつて或は聲を出して或は口の中で之れを唱和してゐた。こゝに他の劇場や常設館に於けると著しい氣分の相違が見出された。

少女たちの演技そのものにしても、最初の間は無論學藝會に少しばかり毛の生えた位ゐなものに過ぎなかつた。君が代の後に演ぜられたが故のみの惡口でもなかつたやうである。が見遁せなかつたことは、技は拙くとも少女たちの一人々々が皆一生懸命になつて動いてゐる健げな姿であつた。上手に演つてみせやうと云ふのでなく敎へられた藝を唯眞面目に熱心に、云はゞ死物狂ひになつて演りとほすと云ふのであつた。この眞劍さに皆ひきつけられて行つた。何だかソコにはだるま屋少女歌劇の公演があるのではなく、自分たちの子供が交る(…)相寄つて演藝會でも催してゐるのではないかと云ふやうな環境をさへ釀し出すのであつた。

だが熱心ほど恐ろしいものはなく、一年も經つたか經たないかと思ふ間に技倆は著しく進歩して、學藝會だと毒づいた人たちも心から感嘆の聲を放つやうになつた。觀客の多くは舞臺の少女たちに親しみを感じつゝある外に、藝の巧さにも魅了されるに至つた。自然にフアンが多くなりフアンの中には誰れの姿がよいとか誰れの藝が優れてゐるとか、或は又誰れの聲がよい誰れの顏が美しいと云ふ様に種々の批評や噂を口にする者も現はれて、だるま屋少女歌劇の名は素晴らしい勢ひで世間に廣がつて行つたが、同時に少女たちに對して、誘惑の手も伸びやうとするのだつた。

坪川の一番心配していゐたのはそれだつた。従つて又坪川の彼女たちを正しく敎へ導いて行く機會もソコから強く與へられた。彼は歌劇部の少女たちに決して店員以上の華美な風はさせなかつた。彼女たちは皆他の店員と同じやうに寄宿舎に引取られてゐた。衣食住はすべて他の店員並みにしか支給されてゐなかつた。店員の敎養についてはいづれ後で細かく述ぶることになつてゐるからには省いておくが、坪川が少女たちに他の店員並みの待遇しか與へてゐなかつたと云ふことは、他の店員と同じやうに彼女たちを愛してゐたといふ意味である。唯彼女たちがステーヂに立つと云ふこと、脚光を浴びると云ふこと、美しく着飾り華美な扮裝を凝らして技藝演ずると云ふことが、他の職業に従事することゝ異つたもの、他の職業に比べて華麗なもの即ち華やかなものであると考へたりすることが、甚だしい誤りであることを常に彼女たちに覚(?)らしめんとしてゐたのである。

同時に彼は舞臺に立つのも店に立つのも同様な心持ちでなければならぬことを強調した。毎夜——日曜祭日などには晝夜二回の公演だつたから、其の日は晝も——必ず開演前に少女たちを一室に集めて彼は激勵した。「今日も一生懸命にやるんだぞ。どんな端役でも少しの不平も持つてはならぬのだぞ。一人でも怠つたら全體がダメになるんだ。一人でも不眞面目にやつたら全部が壊されるんだ。この店の全責任をお前たちが負つてゐるつもりで、皆が一つ心になつて働いてくれ。」こんなやうな意味のことを一度も缺かさずに彼は少女たちに云つて聽かせるのだつた。其の代り坪川は彼女たちの殆んど一切を引受けてゐた。

少女歌劇は一箇月の内二十五日を公演し、あとは次の上演に就いての練習を纒(?)める為めに休んでゐた。そして夏の間は更に彼女たちの休養を目的に休演したが、休演中にはよく彼女たちに慰安の機會を與へるのだつた。歌劇部少女達のみならず、女店員は皆彼をパパと呼んでゐたが殊に歌劇部の少女たちはパパとして彼に親しみ懐いてゐた。どんな外部の誘惑があつても彼女たちはそれに迷はされなかつた。外部から彼女たちに寄せらるゝ手紙や贈りものは、すべてパパの前に彼女たちの手から届けられてしまつた。そしてパパは親切な贈り主に對しては又禮を厚くして返しの贈り物を届けさせるのだつた。

彼女たちが舞臺姿のまゝで終演後に必ず合唱する店歌は、いつのまにかフアンたちの口によつて唱和されるやうになつた。啻に歌劇場内でこれが唱和されるばかりでなく、だるま屋の外、市内のあちらこちらで多くの人たちによつて之れが歌はれる日さへ來たのである。

だるまや少女歌劇は、かくて百貨店だるま屋の名と共に暄傳され、後には各地へ出張公演まで行ふことになつて一層その聲價を博するに至つた。従つてこれがだるま屋の宣傳にどれだけ役立つたかは敢て説明を要せぬであらう。

(p.112-117)

注意:「少女歌劇部の新設されたのは昭和五年四月だつたが」→「昭和六年」が正しい?


だが演劇にそれほど深い趣味を有つてゐた彼も、後年それが彼の事業の上に役立つて來ようなどとは、當時彼自身には勿論、誰れに考へ及んだことであつたらう。だるま屋百貨店は開店後僅に三年を出でずして都會の百貨店ですら容易に手の附けられない「少女歌劇部」を新設し、小學校を卒業したばかりの少女を店内で養成して、少女歌劇を公演したのである。支那事變の突發でこれを休演するまでは同店の特色の一つとして、あらゆる階級から歡迎せられ、特別の親しみを多くの人に感じさせた。そして此の少女歌劇の發案者も指導者も坪川信一その人であつた。往年「復活」や「金色夜叉」や其の他の演劇み自ら携はり傾倒した日の印象が、此の時ゆくりなくも彼の腦裡に蘇へたのではなかつたか。

(p.59)


少女歌劇部をコドモの國の内へ設けた時も、だるま屋の内部にさへ異論があった。それが餘りに非打算的な事業だつたからである。歌劇場の定員は二百か三百に過ぎない。入場料は僅かに二十銭。一箇月二十五日の公演。日曜祭日の二回としても一箇月の公演回数は三十内外。これだけの收入では部員の給料だけにも不足する。衣裳道具や照明や種々の經費を計算したら、一箇月中超滿員を續けても莫大な損害を負擔せねばならぬ。如何に非打算的な計畫であつたかは餘りに明瞭であつた。がそれでも彼はこれを斷行し、これを繼續し、これが爲めに努力と失費とを少しも惜まなかつだのである。

(p.174)