だるま屋少女歌劇

1936年(昭和11)7月:少女歌劇タイムス

DSKフアン 第二號

すばらしく好評を得た第一號より挿繪に 記事に 容に 一の洗を加へた第二號出づ

發行所 鄕土出版

(一部 金拾錢)

少女歌劇論

(3 歌劇とは?)

・少女歌劇(歌劇)と所謂(オペラ)の日本譯語と同意義に解するホド誇大妄想狂であつても弱りますしそれかと申して小學校や女學校の學藝會や同窓會などの餘興と同一するホド似而非謙遜家であつても困りませう

・取扱はれる歌に就きましても(チイチイパツパ)的の童謡から(グランド・オペラ)の一にいたるまで實に千差萬別 種々雜多な曲が含まれて居りますが大マカな言ひ方を致せばこの二つの歌の中間に奇妙なそしていつも中途半端な存在をサラケ出して居る姿こそ僞りない今日の少女歌劇の(歌劇)ではないでせうか? ソコにえざる惱みが御座います そしてまた惱み多いが故に存在價値もあるのかも知れませぬ さう筆者は考へまする

・この論の初めの方に島崎藤村先生の名作の表題(夜明け前)を持ち出しました意味もコンナトコロにあるのです (夜明け前)夜明けは未だこない いつくるか?
イヤこさせなければならない! 之こそ現今の少女歌劇にたづさはる全部の人々に課せられた大きな宿題であらうと愚考致します

・一度は大資本をバツクにしたグランド・レヴユー(本質的に見ますればソレも少女達のみで演ぜられるためにイキホヒ變形ならざるを得ませんが)に依つて少女歌劇(歌劇)が一大形式を整へたとも思はれました そしてソレが(夜明け)ではないか? とさへ感ぜられました 然し乍ら残念にも間もなくソコに幾つかの疑問と惱みを持つやうになりまして某先生をして(少女歌劇有害論)を●●●●●●●にいたりました

・こヽで一寸脇道へ入らして戴きますがこの(少女歌劇有害論)にはナルホドと思はれやうな事が澤山書いて御座います 併し今更 オイソレと止めるわけにも參りますまい ソレホド現在の少女歌劇が浮薄な存在でもありませんし第一ソンナコトになりましたら少女歌劇にたづさはつて居る多くの人々が明日から何をして生きてまゐりませうか?