何から語ろうか……
まず、Gecko。この意味は、やもり。席について意味を知る。「やもり」と呼ばれていた学生時代の彼の人を回想す。
珈琲。うまい、と言ってよかろう。石川の某地にて焙煎された豆を使用。
器。民芸、あるいは、アーツアンドクラフツ、の精神にのっとった(作家の意図はどうであれ)良い作品だった。こうした物が普段使いの道具だと、日常が美しくなる。
チャイに、ケーキに、バナナジュース。上出来。水準は軽く超えてる。
インテリア。自宅にあったものが多数。なるほど、コジコジな空間をもとから創り上げていたということか。こうしてある種、オーナー(女性)の自宅に遊びにいって居間で寛いでいる、という風になる。
以上、秀逸極まるカフェの要件は全て満たしているのだが、このカフェにオーナー自身が付与されて、とんでもない状態になっている。一人で来たお客さんに、オーナーが、カウンターにおいでよと誘って話をし始める、らしい。コミュニティの場としてのカフェ、というのは、カフェの存在理由としてしばしば示される方針だが、それを実際、徹底的に行いかつ成功しつつあるというのは、本当に驚くべき事柄である。オーナーと話し込んでいた間、私はかくも濃密なコミュニケーションを行いえるカフェの実例を思い出そうとしていたが、それは思い出し得なかった。オーナーに対しては、こんなカフェは体験したこと無いよ、云々と発言したが、今、これを書きながら更にじっくりと深く記憶の襞まで辿ると、いくつか近いものは思い出せる。
ウィークエンドカフェ(京都・地塩寮)、その流れをひくバザールカフェ。音楽愛好家のための、極めて怪しいカフェ(従って、知っている人しか入らないため、多くの人が訪れることはなかったようだ)。京都一乗寺にわずかな期間あったカフェ(結局私は入ることはなかったが、伝聞によるとオーナーとお客との会話が発生していたらしい)。いずれもが、多く色んな人に来てほしいと願っているはずだが、結局はそこを知っている人しか訪れないため、人の広がりは偏ってゆく。街カフェ、というご近所の人たちのコミュニティの場になっているカフェは多い。それはたいてい世間話で終わるわけだが。しかし、ここGeckoカフェは、人の広がりの規模と話の内容の質と、そしてそれから派生するであろう出来事とが、オーナー個人の魅力に依拠しつつ、深化する予感に満ち満ちている。
武生市芝原3-6-30 師田ビル1F(28号線の芝原団地口の交差点を東に入り、福井銀行武生北支店の西隣)
12:00-19:00 第3日・第3月・火休
mikihiro