ライフ・イズ・ビューティフル

2000.10.2 - 16

昨日は暫く振りにビデオレンタルして(たぶん今年3本目だ)、アカデミー外国語作品賞受賞の「ライフ・イズ・ビューティフル」を観た。(ラ・ヴィータ・エ・ベッラとなるのかな、イタリーでは)

頭の薄い、口喧しい男、ロベルト・ベニーニ監督・脚本・主演作品。
ベニーニを始めて観たのはおそらくジャームッシュのタクシードライバーの映画、「ナイト・オン・ザ・プラネット」で、その時はやはりやたらうるさくて下世話な役柄でおまけにハンサムでないので、「?」、と当惑したけれど、最近観た同じくジャームッシュの「ダウン・バイ・ロー」でも、やはり同じような役だったので、「結局こういう奴なのか」とようやく納得できた。
で、一度耐性をつけてからのベニーニというのはとても面白くて、なかなかいい映画だった。
ユーモアの幅が広い役者だ。

「ライフ・・・」を急に観たくなったのは、RCS(みなみ会館)のHPのリンクから飛んだ「画輪」という個人映画評のHPの紹介文、「たった2時間で、人生は美しいのだと証明させられた」に触発されてだった。
映画も奥深く、のめりこむと一生あっても足らないだろう。

ライフ・イズ・ビューティフルを見た。
子供は殺さないでちょうだい、幸せになってちょうだい、とはらはらしながら見た。
母親と一緒になれてほっとした。
いつ頃からか、作中のキャラクターに対し、かなりの感情移入をすることになっている。アニメ作品に対しても一緒。おそらく昔は映画やアニメの中で人が死ぬことになる展開でも、死んでほしく無いとかはあまり思わなかったはずだ。でも、最近ではそうではない。
つらい話の展開だと見ていても実際にかなりつらくなるので見たくなくなったりしている。いやはや。


八犬伝2001

2000.10.2 - 16

最近は、やたらとテレビっこ、になってしまって、今からあるBSのドラマ「八犬伝2001」が楽しみ。

ああ、僕も時間を空けました。どうもBS>総合という順番らしいね。

うう、今日は2話目。ひょっとして連日するのかな。深夜0時からBSで見ました。

「八犬伝2001」第1回は観た。
テリー伊藤のカウンセラー役は驚くほど似合わない、
というのは置いておいて・・・。

陳腐になりがちな輪廻転生のモチーフなんだけど、「身近な人間関係そのものが転生する」という要素はなかなかそそられると思った。
「敵対関係は死んでも敵対関係」という皮肉な裏も解釈できるけど。

同性愛的な主題を前面に出しても観賞できるのは、少女同士の特権でしょう。男の子同士では・・・物議を醸し出しそうだ。

3回分みて、もう、ヒロインがかわいいなぁ、との視点から主に見ていることになってしまった。
ヤオイらしい、かわいい男の子同士もみてみたい気がするな。いやいや、「1999年の夏休み」のように、女の子が男の子の役を演じるのもいいな。

地上波はカメの歩みで、まだ1回しか観てません。
鈴木あみ、の相手役(小西・・・)の彼女、テイストは黒沢明監督の孫娘、黒沢優に似ているが、さてどれだけ幅広く活躍できるのでしょう?

かわいい男の子同士、といって全てのキャストがジャニーズみたいだったら、あまり僕の好みではないな。基本的にジャニーズ・アイドルの大半は、気持ち悪い顔をしている、と僕は思うので。

「八犬伝2001」はようやく第2話。

今日の第7話目を見のがしたことに気付きました。
でも、あの話の展開は眠いので、まあ、いいか、という程度かな。
昨日の6話目まで見たけれど、僕の方で語るべきことはないな。

昨日、何か書くのを忘れていたとおもったら、八犬伝2001を見終えた感想だった。

ネタばれを避けて書くけれど、どうかな。残りの回を愉しみに待つなら読まないでちょうだい。(無理かな、、、、)










なるほど!この余白はそのための配慮だったのか!
「まだ2回目だから送るな」という返信を送ろうと思ったら、下から文章が続いてた。
・・・・読むしかないな。






結局、僕から見ると極めて保守的な結末。問題の解決への真剣な取り組みを放棄した終わり方だった。NHKのウェッブサイトをみてシナリオライターの話も読んだけれど、君はそういう人生を歩むのでいいんだね、つまらないドラマをつくって喜んでいればいいよ、と、見る前に期待したドラマだったからこそ腹がたってくる。

二人の女の子の精神的なつながり、あるいは恋愛といっても良い感情、それを基調にしておきながら、この終わり方はないだろ。愚かな価値観を持つ社会との折り合いの付け方には、もっと、他のやり方の提案ができるだろ。結局このライターは前世を信じる人などを題材にしておきながら、彼等を理解していないのだろうな。まあ、確かに理解できるものでもないかもしれない。でも、前世を信じる人と占いを信じる大勢の人とそして宗教を信じる人たちとどう違うっていうの。僕は何も信じないけどさ。

扱うテーマが僕好みであった分、最初期待した。そして、眠いシナリオ・演出を9x45分(1回は見のがした)見せられた分、文句を言いたくなったわけです。

アニメなら見る前から期待することはなくて、というか、大量に見ているから見る前に考える暇がないのだけれど、つまらなかったらそういうものだ思い、わざわざ言葉にして色々いうことはないのだけどな。

こんなに長くドラマで描く必要はないな。120分の映画に凝縮した方がどんなにいいか。「乙女の祈り」、の方が当然ずっと良い。

手厳しいな。確かにヌルいストーリーは世間に多い。「乙女の祈り」・・・成程ね! 10回シリーズってのは僕も長すぎる、って思ったな。
僕はまだ2回目までだけど、あとしばらくは各登場人物のトラウマ描写と島での幾つかの挿話が振られて行くんだろうなー、という予想。
見る人を釘付けにする脇役陣の演技や、絶妙な現在と過去のシーン交換、とかあれば退屈さ、凡庸さは回避できると思うのだけれど、そうかー、やっぱアイドルの歌うポップ・ミュージック並みに手ぬるいのか。(まあ、それでも喜ぶ人は世間にいっぱいいると思うが・・・できればそれがまだ年若い人達で、今後じゅうぶんに成熟してほしいね。)


中東情勢

2000.10.10 - 13

今結構注目しているのが、中東情勢。
イスラエル側もパレスチナ側も双方、かなり臨戦態勢、ヤル気満々に見える。

国連(今回はイスラエル側に過失ありと判断しているらしい)やアメリカを始め、熱心に調停を図ろうとしている様子だが。

本気で肉弾戦を始める用意のモードの両者に、はたして理を説いて、態度変更させられるのか?という、コミュニケーションの実演としても、注目している。

それにしても人間に平穏と救済をもたらすハズの宗教がなぜ今世界で一番深刻な争いを生むのか?
キリストも2000年の節目で、できれば「今までご苦労さん、さようなら」と引導を渡してあげたくなるね。
これは結構本気で考えている事だ。

今結構注目しているのが、中東情勢。
イスラエル側もパレスチナ側も双方、かなり臨戦態勢、ヤル気満々に見える。
国連(今回はイスラエル側に過失ありと判断しているらしい)やアメリカを始め、熱心に調停を図ろうとしている様子だが。
本気で肉弾戦を始める用意のモードの両者に、はたして理を説いて、態度変更させられるのか?という、コミュニケーションの実演としても、注目している。

実際に戦争をしている人たちは違うだろうけど、政治をしている方はこの争乱を駆け引きの材料にしているわけで、周りの国々も必死に説得するだろうし、これ以上おおきなことにはならずに、収束するだろう、との僕の予測。でも、予測は予測だから、あたったり、はずれたり。
シックスセンスはネタばれ3秒前に判ったから映画に勝ったと思ったけどね。

それにしても人間に平穏と救済をもたらすハズの宗教がなぜ今世界で一番深刻な争いを生むのか?

はいはい、それは兄弟喧嘩だからで〜す。と、明るく言ってみた。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、同じ神を信じている点などで兄弟である宗教だから、喧嘩もひどくなる、と。日本の仏教界でいえば、攻撃的な法華経の創価学会(もともとは信徒団体だけどさ)と、その他の仏経諸派とは、徹底的な常時戦争状態(だと思う)なわけで、そういうことだと僕は考えています。
でも、仏経とキリスト教などは、平和なんとかかんとか、で、共同でなにかしたりするあたり、違い過ぎると仲良くできる、ということでしょうか。(鎖国時代の迫害もあったけどさ)

はいはい、それは兄弟喧嘩だからで〜す。と、明るく言ってみた。

おお!!それは分かり易い!

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、同じ神を信じている点などで兄弟である宗教だから、喧嘩もひどくなる、と。日本の仏教界でいえば、攻撃的な法華経の創価学会(もともとは信徒団体だけどさ)と、その他の仏経諸派とは、徹底的な常時戦争状態(だと思う)なわけで、そういうことだと僕は考えています。
でも、仏経とキリスト教などは、平和なんとかかんとか、で、共同でなにかしたりするあたり、違い過ぎると仲良くできる、ということでしょうか。(鎖国時代の迫害もあったけどさ)

なるほど、明解だ、
「近親憎悪」というやつね。
たしかに仏教徒とキリスト教信者のバトル、というのはあんまり聞かないし、そもそも両者が同じ地平で議論しずらい気がする。
お互いのポジションが比較的分かりやすいが故の、譲れない争い、となるのか。
(しかし、違い過ぎるからひとまず仲良くできる、というのはコミュニケーションの初歩であって、もしかしたらコミュニケーションの深度が深まっていったら、結局仲違いするものなのかもしれない。結局、「互いを知り過ぎなければ良かった」・・・と、このへんは運命の皮肉となるかもしれないな)

イスラム教は現代世界であまりにも異色な存在になってしまっているけど、、たしかにキリスト教、ユダヤ教とルーツは一緒。
(イスラム教に対する警戒感は、同様にユダヤ教にも感じる、つまり選民思想。2つの宗教がヤバイという事は、つまり残りのキリスト教も相当ヤバイ宗教なのでは?と演繹されるが、キリスト教に対する警戒感というのは世界であまり聞かれない。これは数の論理というやつなのだろうか?)

それでも、だよ。
民族の団結とか、コミュニティの安定とか、信教に肯定的側面は多いだろけど、コミュニティの外世界とのコミュニケーションに支障が生じてしまうようであれば、その信教の足枷をずらすくらいの(このへん日本的?)ルーズさはあってもいいと思うんだけどねえ。
外世界と争う事で、内世界の秩序を高め、保つ。
非常に閉鎖的で排他的で保守的な・・・でもこれも人間の自然か。

争いを回避するためには、敵対関係にある両者を同時に内世界に入れてしまうような、外世界を想定し、内世界での協力が不可欠な事態を抱え込むようにする、と。
しかしこの理論を今の世界情勢に適応すると、理想的な外世界の脅威というのは宇宙人の襲来になってしまって、映画「インディペンデンス・デイ」になってしまう。

で、次のコミュニケーションの課題は「宇宙人に遭遇したら、はたして仲良く出来るか」
になるのかな?

イスラム教は現代世界であまりにも異色な存在になってしまっているけど、、

確かに現代ではそうです。7世紀始めにイスラム教が誕生した時、これは都市を中心とする先進的な宗教として生まれました。女性の権利も認めているし、ハンディキャップドに対する援助も奨励していたんじゃないかな。今では、時代にそぐわないけれどね。
信じなければ地獄に落ちるぞ、と繰り返し繰りかえし延々とコーランで述べられていて、読んでいたら洗脳されそうになるし。

イスラームは、他の宗教に対し寛容というのも重要ですな。「剣か、コーランか、納税か」が、正確じゃなかったかな。納税すれば、宗教は自由。特にイスラームにとってはユダヤ教とキリスト教はイスラム教の基になるのでその信者はさらに優遇されていたはず。キリスト教よりよほど寛容ですな。

たしかにキリスト教、ユダヤ教とルーツは一緒。
(イスラム教に対する警戒感は、同様にユダヤ教にも感じる、つまり選民思想。2つの宗教がヤバイという事は、つまり残りのキリスト教も相当ヤバイ宗教なのでは?と演繹されるが、キリスト教に対する警戒感というのは世界であまり聞かれない。これは数の論理というやつなのだろうか?)

イエスは、割礼を受けた(岡田先生が言っていた)ユダヤ教徒、というのを押さえておかないとな。 当時のユダヤ教徒ももちろん今のユダヤ教徒も、イエスをユダヤ教徒と認めないだろうけれど、イエス自身は自分をユダヤ教徒と認識していたはず。ここらへん、聖書を読んで確かめないといけないな。
旧約の途中まで読んで、挫折。黙示録はおもしろい。

代々木ゼミナールの世界史の武井正教先生の講議で、非常に驚いたことの1つに、紀元前6世紀に、インドで仏経、中国で儒教、オリエントでユダヤ教、が成立する、ことだったな。

あと、釈迦は、極端なことではなく物事の中庸を説くあたり、いいかもしんない、と僕は思っている。

日本の仏経は釈迦の教えから完璧に逸脱しているので、ウォッチングにはいいけれど、何かをそこから学ぶ必要性は皆無。
お経なんかは、インドの仏典を中国語に翻訳したのを、中国語よみで唱えているものじゃなかったかな。ここも、確認しておかないといけないけどね。釈迦は、民衆に判るパーリ語で話せ、と言い、知識人にしかわかならいサンスクリット語では、語るなと言っていたはず。その点、日本の仏経はすでに終わっている。あと、釈迦の教えでは仏像みたいな偶像崇拝は当然禁止。

なんか、はずはず、と書いているけれど、昔研究したことなので色々忘れているんだな。でも、まあ、だいたいあっているよ。

それでも、だよ。
民族の団結とか、コミュニティの安定とか、信教に肯定的側面は多いだろけど、コミュニティの外世界とのコミュニケーションに支障が生じてしまうようであれば、その信教の足枷をずらすくらいの(このへん日本的?)ルーズさはあってもいいと思うんだけどねえ。
外世界と争う事で、内世界の秩序を高め、保つ。
非常に閉鎖的で排他的で保守的な・・・でもこれも人間の自然か。

そういうもんですね。
逆に、分割して統治せよ、をやるあたりさすがイギリス、巧妙です。わけられると争うことになるということ。
まあ、人間の習性は変えられるものではないから、それを利用してもっと良い方向に向かわせる、というのがいいんじゃないか、と昔考えていたな〜。今、思い出した。

旧約の途中まで読んで、挫折。黙示録はおもしろい。
代々木ゼミナールの世界史の武井正教先生の講議で、非常に驚いたことの1つに、紀元前6世紀に、インドで仏経、中国で儒教、オリエントでユダヤ教、が成立する、ことだったな。

BC6世紀に人類は突然の叡智を受けた、という事なのかな。
何か推進力があったのだろうか。

あと、釈迦は、極端なことではなく物事の中庸を説くあたり、いいかもしんない、と僕は思っている。

釈迦、とくるとベルトリッチ監督の「リトル・ブッダ」を思い出す。
夏、実家のWOWWOWでの放映の時は、退屈で途中でやめてしまったけど。
あとから考えれば、あれは仏教をチベット側に沿って作ってて、中国側からみたらかなり危険な表現だったのかのかもしれないな。
アメリカでは「チベタン・フリー・コンサート」なんていう反中国ともいえるロック・フェスもあったり、少数民族自立を尊重する傾向があるよね。

まあ、人間の習性は変えられるものではないから、それを利用してもっと良い方向に向かわせる、というのがいいんじゃないか、と昔考えていたな〜。今、思い出した。

そうだね、
少数の人間が回心の方向に向かっても、マス(群衆というモンスター、とは社会学者の言葉だったかな)は容易に変化しない。
まあ、いつの世も、大差ないのだろうけれども。

中東情勢は君から終息に向かうだろう、と返事を貰った直後、実際そのように見えたけれども、まだまだ局地的にくすぶっている気配。
政治家の駆け引きよりも、実際の市民の怨恨の方が全然根深くなってる、って事か。
いっそ、バラクとアラファトのボクシング・ワンマッチで決着をつければいいのに、と僕は思うね。
一見若くて恰幅のいいバラクの有利に見えるが、アラファトも不死身伝説を持つらしいし、興味深い勝負になると思うんだけどねー。

アラファトは既にノーベル平和賞を受賞しているし、今回の韓国大統領の受賞といい、どうもノーベル平和賞というのは、今まさに戦争状態が懸念される当事者に贈って、闘争状況への突入を抑止しよう、なんていう不純な動機が見え隠れするのですが・・・。


男中心・ジェネレーションの分断

2000.10.20 - 22

水曜日の夜遅く、京都に戻りました。

(中略)

今回はとんぼがえりだったので、荷物の軽量化のためダークスーツでの移動となり、新幹線の移動も多くのビジネスマンにまぎれる格好となった。まあいろいろと考える材料になったけれど、やはり男中心の異様な光景だと僕は思う。
そんな世界に浸りきってしまえば、ますます女・子ども・老人達との距離は離れる一方で、コミュニケーション不全の状況に拍車がかかるばかりだ。

そうそう。幼稚園と老人ホームを一緒にすると、お互いにいい結果が生まれたはず。ジェネレーションをくっきりわけるのは害が多いよな。

子どもと老人、或いはそれと女性との組み合わせ、ならば結構仲良くやっていける、のはだいたい予測がつく。問題は男が介入すると途端に上手く行かなくなる、という事。
どうしてだかおおよその原因はわかる・・・男がアホだからだ!
ちくま新書の『こういう男になりたい』は結構面白かったよ。同じちくま新書の『もてない男』(「平成の名著」とか帯がかかってた、読む気がしないけど)よりいい本だと思うよ。

男がアホ、というのは分かりやす過ぎるぞ! 笑えるけれど。


書物と人の寿命。

2000.10.26

以前のメールで触れてた講談社現代新書の「現代思想を読む事典」、高野の引越しの際に僕が君から譲り受けてたかな?と思って部屋を捜したけれど、出てこない。おそらく僕のとこじゃない別の場所に行っていると思われる(断定できないのは、自分の部屋のアイテムの所在が僕にすら把握できなくなりつつあるからだけど)。

今は手元に無い本だけれど、不思議と今も何処かで棲息しているような気もする。というのは、古本屋とかの環境が整備されているからで、案外一冊の書物の寿命は一人の人間の寿命よりよっぽど長いかもしれない。
人は死んでも、言葉は残る、と言ったところか。
それゆえに、焚書の場面を目撃する時にはひどく動揺するのだろうか?

そうだな、確かに本は人無きあとにも生き残るか。
今ではデジタルデータはいつまでもいつまでも残り続けてゆくことになった。朽ちることが決して無い。記録メディアは変わっても0/1のビットの並びは変わらない。ひょっとしたら、このデジタルデータの奔流の中から知性が生まれ得るかもしれない。

誰かのエッセイで、旅をする時、文庫を読み終えたらそれを焚き火に使う、とあった。この本だけではなく、他にも読みたい/読まなければならない本があるから、云々の内容だったと思う。僕も、それにはなるほど、と得心した経験がある。

いや、こう言葉にすると、実際そのような経験があったのが事実のように思ってしまう。確かにそのようなことがあったと思ったからこのように書いたのだが、書いた直後に本当はどうだったのだろう、と疑問におもってしまった。だから、正確に書くと、「僕も、それにはなるほど、と得心した経験がある、ような気がする。」となる。
この「お茶好き 雑貨好き」のサイトにしても、記憶に頼って書いているため、果たしてその記憶が正確なのかどうか、考えはじめると、書けなくなるか極めて曖昧な表現をとることになってしまう状態だ。一旦言葉にしてしまうと、実際その通りだと頭の中に刷り込まれてしまう。言葉が記憶を創っている、と言える。つきつめれば、ほら吹きは自分の言葉のほらを信じてしまうようになる、のと同じことなのだろうか。